大丈夫。
私はひとりで、生きていけるから。
Stand Alone
「何、見てるの〜?」
突然に背後からかけられた声に、大河は慌てて読んでいた雑誌を座布団の下に隠した。
「や、やっちゃん? 起きてたんだ?」
振り向いて早口で誤魔化そうとする彼女に、やっちゃんこと泰子は、夢うつつのポヤンとした瞳のまま、小さく首を傾げる。その様は、高校生の息子がいるとはとても思えないほどの幼さだった。
「ちょっと喉が渇いただけ〜もうちょっとだけ寝ててもいいよね〜」
ジャージ姿のまま、フラフラと台所に向かう彼女を、大河は慌てて追う。案の定、机にぶつかりそうになってバランスを崩す泰子を支え、手近な椅子に座らせてから、冷蔵庫の中からよく冷えた麦茶を出してコップに注いで渡してやる。
クイクイクイッ。受け取ったそれを泰子は一気に飲み干す。プハーッ、と大きな息を付いた彼女に、大河は机に置いた麦茶のポットに手をかけながら、
「お代わり、いる?」
「ううん。大丈夫ー。ありがとう、大河ちゃん」
泰子は言いながら、満面の笑みを浮かべる。そして、
「優しいね、大河ちゃん」
「こ、これぐらい、当然よ」
思わぬ褒め言葉に、大河の顔は瞬時に真っ赤に染まった。照れ隠しなのだろう、腕を組もうとした瞬間。
「あっ」
机の上のポットに肘がぶつかって倒してしまう。幸い、大河にも泰子にもかかることはなかったが、床には大きな水溜りが出来てしまっている。
最後まで決めていられない、逢坂大河はそういう女だった。
「あれれ、大変、大変」
ティッシュを手に立ち上がろうとする泰子を、
「いいよ、やっちゃん。私がやるから」
言葉で制したのは大河だった。彼女の手からティッシュの箱を取り上げ、一生懸命、床に広がった麦茶を吸い上げようとする大河を、泰子は驚いたように見つめていた。
「なに?」
その視線に気付いて、振り仰いだ大河に彼女は、
「大河ちゃん、ちょっと変わったね」
「え?」
唐突な感想に、むしろ大河の方が面食らう。それに気付いてか気付かずか、泰子はニッコリと笑って、
「すごく頼りになるなー、って。ホント、ありがとうね」
「……別に、私がやっちゃったことだから」
ぶっきらぼうに答えて、彼女はビショビショになったティッシュをまとめてゴミ箱に放り込む。
「ほら、やっちゃん。もうすぐ時間じゃないの? 準備しないと」
「うん、そうだねー。それじゃちょっと、お風呂に入ってくるー」
言って脱衣場に向かう泰子の瞳に、暖かな笑みが浮かんでいたことに、大河は最後まで気付くことはなかった。
何故なら、嬉しさと恥ずかしさで真っ赤になっているのを隠すために、ずっと顔を背けていたから。
頼りになる。
単純なその一言が、大河は嬉しかったのだ。
「ぴぴるぴるぴるぴぴるぴー♪」
シャワーの音に交って聞こえてくるのは、泰子の鼻歌。楽しそうな彼女の様子に、なんとなく大河の気持ちも盛り上がる。時計を見て、まだもうしばらくは竜児が買い物から帰らないだろうと計算して、座布団の下から彼女は隠した雑誌を取り出す。
ずらずらと並ぶそれは、どれもこれも求人誌。
大河は、片っ端からそれをめくって、いいバイトがないか、と探す。
「うーん、あんまりいいのがないなぁ……」
思わず口にするのは、不満の声。数冊並んだ雑誌の中には、やたらと分厚いものもあるにはあって、確かに求人の数は揃っているのだが、どれもこれも彼女の望む条件には程遠い。
そもそも、高校生可というものが少ない。勤務時間が平日の昼間、というのが多いのだ。大河達の通う高校は、一応、アルバイト可ということになっているが、さすがに授業をサボって働くことまでは許してくれないだろう。
さらに言えば、この地域での求人の数が少ない。元々、小さな街なのだ。需要と供給がアンバランスになっていることは否めない。
とはいえ、大河としては、あまり遠くに行く気にはなれなかった。
「へぇー。席に座って話してるだけで一時間五千円、能力次第で一万越えだって……ねぇ。高校生でも可、か……」
胡散臭そうに読み上げながらも、一瞬、大河の目に逡巡が生れた。が、その所在地がひどく遠かったこともあって、断念する。
ペラペラと次々にページを捲っていった彼女は、やがて溜息を付いて雑誌を鞄にしまいこんだ。
ゴロンと畳の上に寝転んで、天井を見上げる。
働こう。そう思ったのは、学園祭の直後だった。
あの夜。
ひとりで、生きていく。
そう決めた。
チクリ、チクリと記憶が胸の奥をついばんでくる。痛いけれど、泣きたくなるほどではなくて。だけど無視出来るほどではなくて。
学園祭。あれほど楽しみにしていたのに、父親は来なかった。
直接のメールすら寄越さずに、竜児を通じて彼女はそれを知った。
ああ。やっぱり。
不安が現実になった時、悲しさは振り切れた。
どうして期待してしまったんだろう。来る筈ないのに。ただの気まぐれだったのに。
拒絶していたのは、それを知っていたから。
誰かのせいには、したくなかった。
形としては、確かに、竜児の言葉に負けたことになっている。
けれど、あの時、本当は誰よりも駆け寄りたかったのは、自分自身だということもわかっていた。
だって、裏切られた過去を彼に話さなかったのは自分だったから。あの時、それを話していれば、何かが違っていたはずだ。
話さなかった理由は、大河自身にもわからない。竜児の滅多に見せない弱い部分を見たからかもしれない。彼の『父親』への思いを守りたかったのかもしれない。
あるいは全部が言い訳なのかもしれない。ただ自分の為だけだった、そういう風に感じもする。
どんなに傷付けられても、大河の記憶の底には、楽しかった頃の思い出がこびりついている。母と……今の父の妻ではなく大河を産んだ実の母と、父と大河の三人で、幸せだった頃の。
もしかしたらそれは、表向きだけの幸せで、裏では冷え切っていたのかもしれないけれど、それでも。
大河は幸せだと感じていたのだ。
だから、彼女は父親を拒絶し切ることが出来なかった。もしかしたら、本当にもしかしたら、今度こそ本当で。
そう思ったからこそ、思ってしまったからこそ、駆け戻った。
結果として、やはりまた大河は裏切られたのだけれど。
信じていたのに。泣き言を言うつもりは、今の大河にはさらさらなかった。
信じたのは自分。裏切られた過去があるのに、それでも信じてしまったのは自分。
全て自分のせい。
だから、痛くても仕方がない。
だから、立ち上がる。
それが大河の選択だった。
けれど。
閉じた大河の瞼の裏に浮かぶのは、あの夜のこと。
手を繋いで駆け寄ってきた、竜児と実乃梨。心配そうに覗き込んでくる二人の顔。
キュッ、と心臓が収縮する。
苦しくて。息が出来なくて。
彼女は胎児のように、体を丸める。
大河が『信じてしまった』ことで、二人まで傷つけてしまった。
彼女の問題なのに。彼女だけの問題だったのに。
巻き込んでしまった。
大丈夫。
大丈夫。
呪文のように、大河は唱える。
私はひとりでも、生きていける。大丈夫。大丈夫だから。
何度も何度も頭の中で、自身に言い聞かせる。
そう。大丈夫。
もう二人を傷つけたりしない。心配もかけない。
ひとりでも、大丈夫。
だから彼女は思ったのだ。働こうと。
父親に頼らなくていいように。
竜児に甘えなくていいように。
実乃梨に心配されないように。
ひとりで生きていけるように。
「おい、大河。そろそろ起きろって」
ゆさゆさとゆさぶられて、大河は薄く目を開けた。
考えているうちに、いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。目の端に感じた違和感に、触れると微かな涙。夢を見て、泣いていたのだろうか。
「おう、起きたか?」
「竜児……」
ぼんやりとした声で言ってから、慌てて大河は彼に背を向けた。泣いていた所など、見られたくなかったから。
「起きたんなら、そこどけって。晩飯の準備が出来ないだろ」
「あ、うん」
幸い、気付いていなかったらしい。竜児が晩飯を並べていくのを見ながら、ゴシゴシと服の袖で目をこする。泣いてなどいなかった。私は。
「そういや大河、お前、お茶こぼしただろ?」
「……それが何よ?」
竜児の言葉に、大河はガチャガチャと皿を洗う手を止めずに答えた。
晩飯を終えて、すでに泰子は出勤していない。
洗い物をするのは、大河。言い出したのも、大河。ひとりで生きていく第一歩、ぐらいのつもりで言ったのだが、その言葉を聞いた時の竜児の驚きっぷりはすさまじかった。インコちゃんも同様だったのだろう、止り木から真っ逆さまに落ちて、その後にバタバタと籠の外に逃げ出そうとしたほど。
熱でもあるのか!? と言ってくる竜児の胸板に大河はチョップを一発、二発、散髪。それを見て『Woooo!!』とインコちゃんが叫ぶ。そうして竜児を黙らせてから、彼女はシンクの前に立ったのだった。
それはともかく。
「で、そのお茶をティッシュで拭いたろ?」
「だからなんだってのよ」
キュッ、と蛇口を閉めて、皿洗いを終えた大河は竜児に向かい合う。
「そういう時はな、お前、雑巾を使えよ。ティッシュがもったいないだろ」
「…………」
期待していたわけでは、決してなかった。ただ、泰子に褒められたことが頭の片隅に残っていただけ。
「それか、キッチンペーパーな。あっちの方が……」
「おらぁぁぁぁ!」
まだくどくどと言い募る竜児の喉に、大河の肘を曲げたラリアットが見事に決まる。『イッチバーン!』と叫んだのは当然、インコちゃん。
「ったく、いちいちこまかいヤツねっ。そんなだからばかちーにおばさん男なんて言われるのよ」
けっ、と言って大河は部屋に戻る。竜児はといえば、インコちゃんよろしく白目を向いたまま、台所に置き去りにされたのだった。
後日。
大河はめでたくアルバイトを見つけることが出来た。
実乃梨が働いているのとは違う系列のファミレスでのウェイトレス。
竜児が聞けば驚きの余り失神しかねない職だった。
聞けば、だが。
彼女は、竜児にも実乃梨にも、そのことを秘密にしていたから。